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ひきこもり批評 ~他者との関わりと1つの自我~

「ひきこもり」という言葉がよく出回っているが、よく出回っているということは、それだけ多くの「ひきこもり」という事実がある、ということを意味している。
実際、自分で自分を「ひきこもり」と言う人が多いのも事実。
自分で自分を「ひっきー」とか言ってる人もいる。
他人と関わらずに自分の世界に浸った方が、いわゆる「本当の自分」になっているのか?
「ひきこもり」の人間に関しての報道を見ていると、どうやら違うらしい。
「ひきこもり」というのは、歪んだ、屈折した、異常な生活形態として捉えられている。

自分自身に出会うためには自分だけでは駄目である。
他と関わることによって自己を自覚する。
いわゆる「心の病」と「他人との断絶」は並行関係にある。
他人と断絶することによって、徐々に人格が崩壊していく。
つまり、他人と関わらないで生きていくということは、自我が萎縮していくことを意味する。

その根拠。
たった一人で生きている場合、毎日同じ自我である必要がないから。
一人だったら、どんな自我でも構わない。
気分でどんどん変えていっても問題ない。
だが、実際はそうもいかない。
自我は一つでなくてはいけない。
どういうことかというと、我々には、他人に対して同じ自分でなくてはいけない、という一種の道徳的要請がある。
道徳的要請とは、強い制約・縛りであり、社会的義務とも言える。
例えば、他人に金を借りて何年も返さずにいたら、金を貸した人間が返してくれと言う。
その時、「あの時、君にお金を借りた私は、今の私とは違う。」と言うわけにはいかない。
この発言は許されないだろう。
金の貸し借りだけではない。
愛情についても問題になる。
「あの時は、あなたを愛していたけれど、今はもうあなたを愛してはいない。昔の私と今の私は違う。」というのはどうか。
こう言われた当人は、恐らく問い詰めるだろう。
今の世の中、愛の誓いに対する裏切りには厳しい処罰が下される。
特に結婚した場合は顕著。
だが、「もう愛していない」という事実はどうしようもないし、善悪以前のナチュラルであることは確かだ。
モラルや価値観を利用して、かろうじて成り立っているのが世の中。

「私」の成立に、良い意味でも悪い意味でも、否応なく他人が関わっている。
自分の世界に閉じこもることは、多かれ少なかれ自分を失っていくことになる。

勿論、他者との関わりには、妥協や馴れ合いや葛藤がつきもの。
日本では、他者との対立が曖昧に避けられがちだが、時には対立も必要である。
他者との摩擦や対立は切り抜けていかなくてはいけない。


Cf.他者論
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by epokhe | 2004-12-10 17:45
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