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写真論

写真の伝える情報というのは、実に曖昧である。
見る者によって実に様々な解釈がなされ、多様な意味合いを含み得る。
1つの写真から色々なカテゴリーが生まれる。

写真が伝えるものは一瞬の過去であり、決して現在につながらないものである。
そこには常に2つのメッセージがある。
1つは、写真に撮られた事柄に関するメッセージであり、もう1つは、時間的不連続に関する一種のショックである。
写真が撮られた時点とそれを見ている現在という時点は全くつながらず、深淵が存在する。
時間的ギャップがあるにもかかわらず、それを考えずに写真を使う。
多くの場合、第2のメッセージ(時間的不連続に関する一種のショック)を無視し、また、それほど意識しない。
ただし、写真に写っている人・事柄について我々がよく知っている場合は例外である。

写真は、確かにそこにあったもの、少なくとも、そこにあったものの外見を記録する。
しかし、外見というのは、実際はほとんど何も語らない。
多様な解釈が可能だから。
情報伝達手段としてリダンダンシーが大きすぎる。
つまり、「欠陥情報」。
にもかかわらず、外見に対する反応が大きいのは、それが本能的なものだからである。
例えば、性的刺激や色で起こされる刺激。
ポルノなどは溢れんばかりの写真で埋め尽くされている。
写真は、存在性を示す最も確信を持たせる手段の1つである。
我々と感覚的に関係を持つ、存在に関する認知。

だが、それにもかかわらず、写真はそれを撮った人がその瞬間に考えた物語のうちの一瞬を示すため、やはり曖昧である。
曖昧さは残り、情報媒体として不完全なものである。
そこには、ギャップと時間的不連続性と孤立した時間があり、記憶の中の時間と異なる。

「意味づけ」は、それが統合しているものの中で発見され、発達されることなくして存在し得ない。
「文化」とは意味の体系であり、「生活」は常に意味づけを行っており、瞬間的なものではない。
「連続性」にはコンテクストとストーリー性がある。
「情報」はそれ自体意味をなさない物質である。
情報を要素に分解・処理するコンピューターからは、「意味づけ」は出てこない。
「意味づけ」には、知られていないものへの反応も含むからである。
写真を意味深いと考えることは、それが撮られた瞬間を拡大することに他ならない。
過去・現在・未来へと。

写真は、撮るべき瞬間の選択、という点で、小説・絵画・演劇といったメディア手段よりも「意向性」が弱い。
ドラマチックなものでも、写真そのものの意向性ははっきりしない。
したがって、補う必要があり、その多くは言葉でなされる。
例えば、写真には必ずキャプションが付く。
言葉と結び付くことで、写真は極めてパワフルなメディア媒体になる。
一瞬の確信さが、言葉に権威を与えるからである。
それは教条的な確信になり、信念になってしまう。

写真と絵画を比較してみると、写真は一瞬の時間であり、絵画は真のイメージの翻訳である。
写真は全ての対象物に平等な時間配分であり、絵画は全ての対象物に違った時間配分である。
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by epokhe | 2004-12-28 17:10
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