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寺山修司と岸田秀 ~主・依存~

寺山修司は、岸田秀とは非常に軽快でリズミカルな歯切れの良いテンポの対談を繰り広げている。
やっぱり、二人に対しては同じ匂いを感じてしまう。
(以前、三島由紀夫との対談についても書いたのでご参照下さい。)


寺山:しかし、民主主義もだめだが、君主主義もだめだ。「主」という言葉がつきまとっている間はダメじゃないかな。

岸田:しかし人間には「主」は必要なんですよ。いわば人間はまず「主」があって存在しますからね。人間というのは非常に無力な状態で生まれるわけで、他の高等哺乳類と違って、最初から誰かに依存して育つわけですから。
ほかの高等哺乳類なら、生まれてすぐに自活できるわけですけど、人間は知的にも感性的にもかなり発達したあとも、他者(だいたいは母親ですけど)に依存して何年かを育てられるわけです。そういう依存状態というのが人間の原初経験で、依存心、「主」を求める心というのが人間の最も基本的な欲望ですからね。

寺山:だた、それを何歳で断ち切るか、ということでしょう。

岸田:いや、それは一生断ち切れないですよ。

寺山:そう言っちゃうと人間は<人間>という物語から自由になれないということになるな。

岸田:たとえば母親なら母親という特定の人物への依存を断ち切るということはできますけど、「主」を替えるだけですよ。最初は母親に誰でも依存するわけだけど、母親に依存してるのは最初の状態で、そこからだいたいは卒業するわけです。そこから卒業できないのはマザ・コンだとか言われて馬鹿にされますけど、マザ・コン以外の人が依存心を断ち切ってるわけじゃなくて、母親じゃないところに鞍替えしただけで、誰かには依存してるわけです。
親分でも先生でもいいし、教祖でもいいし、友人でもいいし、恋人でもいいし、とにかく誰か主人が欲しいんですよ。人間には主人が欲しいという病気がある。これが人間の最大の病気です。

寺山:欲しいんだけれども主人が見つからない、という病気でしょう。主人の不在によって充たされつつあるという。

岸田:ええ、本当は主人なんてどこにもいないわけですから。幼児の幻想のなかにしか存在しないわけですから。

(中略)

岸田:そこで依存の対象がバラバラに拡大してしまったということではないですかね。しかし、この拡散してしまった依存の対象というのは、どうも頼りなくてわれわれの依存心を満足させてくれない。また、誰でもみんなに崇拝されている対象に依存するのなら、屈辱感がないんですが、そういう拡散された対象は、依存するにしても屈辱感があり、それに依存するということはよくないことになっていて、独立と自存がいいことになっているから、実際には依存していても、依存しているという事実を否認する。つまり、依存心が心おきなく満足されるということがない。
しかし、人間が主人を求める存在だということは依然としてあるわけですから、今や現代人は主人が欲しいけど頼りになる主人がいない、しかも主人を求めるのは、独立的であるべき個人として恥ずかしいことだから、否定しなければならない、という非常に不幸な状態にあるんじゃないですかね。

(後略)

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寺山修司の、「主人の不在によって充たされつつある」という病気は哀しいことにモットモだと思う。
また、岸田秀は、「依存するということはよくないことになっていて、独立と自存がいいことになっているから、実際には依存していても、依存しているという事実を否認する」、「今や現代人は主人が欲しいけど頼りになる主人がいない、しかも主人を求めるのは、独立的であるべき個人として恥ずかしいことだから、否定しなければならない、という非常に不幸な状態にあるんじゃないですかね」と言っているが、あらまー、実にそうだわ。
一切依存しないというのは、即ち死を意味するから、そりゃ勿論不幸。
その辺を忘れて、独りで生きていけると思っている人は甘いと思う。
人間は多様なもの、多様なことに依存してるわけで、まあ確かに、独りでやっていけると思ってるうちは問題ないかもしれないが、そうできない状態になった時、依存を拒否する人はそれ故に即ち自殺でもするんですか?と言いたい。
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by epokhe | 2005-01-16 15:01
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