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「棒」の哀しみに象徴される、「存在」の情けなさ

学生時代に映像の授業でお世話になったM・H先生の著書を久し振りに引っ張り出してみた。
なぜかと言うと、神代辰巳の遺作で奥田瑛二が主人公の映画『棒の哀しみ』について、先生が言及していた記憶があったからだ。
調べてみると、やはりあった(写真付きで)。
『棒の哀しみ』についてはここでは書かないが、著書の中で、存在の情けなさとしての神代辰巳という章にこんな記述があった。

「裸」の「脆弱さ」は、(中略)、男女の性行為の場面においても同様に存在しているとは考えられないだろうか。
確かに性的場面における裸体は、「観念として」はエロチックなオーラを放っているかもしれないが、しかし「具体性として」は常に、人間の身体の「弱さ」や「惨めさ」をも露呈させてしまっていると私は思うのだ。
実際、裸になって獣のように絡み合い、喘いでいる男女の姿など、冷静に見れば「情けなく」「みっともない」姿以外の何ものでもないだろう。
だから私たちは、ハードコアポルノの本番場面を見続けたとき、かえって何か惨めな気分に陥ってしまうのだ。
なぜ自分はこんなに「惨めな」「みすぼらしい」人間の姿を見たいなどとあれほど欲望していたのだろうかと。


上記のことは、過去に具体的な説明をしてもらったこともあるので、実によく理解できる。
見たいものが見たいのではないと悟らせてくれた契機は、この先生かもしれない。
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by epokhe | 2005-04-29 15:56
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