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山田太一『男・女・家族』

(引用開始)

 社会が個人に求めるのは、多くその個人の断片的能力であり、営業のうまい人はその営業能力を、技術を持つ人はその技術を求められる。しかし、それ以外のその人が持つさまざまな(豊かかもしれない)個性については関心を持たれない。
 必要とされた能力が衰えれば、大抵の場合その人物は社会的には無か邪魔者になってしまう。
 そのような扱いに耐えられるのは、社会の要求にこたえることに多忙な一時期か、社会的な挫折を知らない少数者、よほど孤独に強い人、厭人家などで、多くの人は、社会が必要とする能力があるとかないとかと関係なしに自分に関心を持ってくれる人間を必要としてしまうのではないだろうか?
 そのような相手が必ずしも家族である必要はないが、友人とか恋人というような関係はその結びつきの強度を互いの気持に頼るしかなく、気持は大抵の場合不安定なので、多くの人は血縁とか結婚という制度で保証された関係を必要とするのだろう。
 もしこのように現在の家族が、生物として互いに生存して行くための結びつきであるより、他では求められない心の充足のためにあるとすれば、あまりその目的を果たしていないという意見もあるだろう。それにしては、家族同士が心を開いていないではないか、と。むしろ家族は、本音を隠し、あたりさわりのないことをいい合い、お互いに深い関心を持っていないことの方が多いのではないか、と。
 たしかにその通りだが、家族外の社会はそれにも増して水くさい社会であり、その結びつきは更に頼りなく、多くの人々は家族や夫婦の結びつきの薄さを歎きながらも、その関係を捨てることが出来ず、血縁であること、籍を入れていることなどに、なにがしかの心の安定を求めているのではないだろうか?
 ―(中略)―
 にもかかわらず、私たちが家族を捨てきれないのは、社会的な価値基準で「役立たず」と判断されてしまった時、もし家族的なるつながりがなかったら無になるしかない社会に私たちが生きているからであり、家族だってそういう人間を「無」として扱わないという保証はないのだが、他の結びつきに比べれば、まだしも一人の人間を匂いも臭みも汚れも癖も持つ存在として対してくれるのではないか、という期待を捨てきれないからではないだろうか?誰も家族に多くを期待してはいない、しかし家族的なるものを捨て去って動じないほど幸せではない。

(引用終了)


いやぁ、全く以ってその通りですなぁ。
見直しました、山田太一さん!
いいこと言うわ、ほんとに。
現状にフィットする説明。
我々が一人でいられるくらい幸せになれるのはいつだろう。
by epokhe | 2005-10-30 21:03
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