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裸で剥き出しの性環境

『核家族という性環境』の中で黒井千次さんは言う。

■普通、他人がまじっている集団を家族とは呼ばない。それだというのに、家族の重要な構成要素たる夫婦が、実は他人同士なのである。としたら、家族の中には、父親と子供、母親と子供といった血縁関係が二本立てで成りたっており、父親と母親、つまり夫婦の間には、血のない虚構の橋がかかっている、と考えるしかない。

■性の結びつきが他人である男女の間にしか認められぬとしたら、家族内の他人とは夫と妻でしかないのだから、この二人の間にのみそれは成立を許される。
 しかし一方、家族の外に眼を転ずれば、そこは他人の海である。夥しい数の他人としての異性が、夫や妻の周囲を埋めつくしている。いや、むしろ、限りなくばらまかれている他人同士の性的結合の可能性を断念し、拒絶し、そのほんの微細な一部である一人の男、または女を選んでそこに特別な関係を取り結んだのが夫婦であるに過ぎない。このような自由の前提、豊かな可能性は、親と子の間にはあり得ない。横に結びつく夫婦とは異なり、血縁によって縦に繋がる親子に選択の余地はないからだ。
 としたら、他人に溢れた自由な性の海へと漂い出そうとする可能性を本来孕んでいるはずの夫や妻を、夫婦という名の一対一の関わりの中に封じこめ、性を家族という場に密閉する力は、どこから生れて来るのであろうか。

■女性にあっては、旧社会のもとで「家」の重圧に抵抗し、男性支配に対して闘った人物像の延長上に、自らの理想像を築くことはさほど難しくなかったのに反し、男性はその手がかりを持たなかった。せいぜいが、高度経済成長期における仕事の担い手としての半身像であり、そこからは家庭の光景が抜け落ちている。見方によっては、それはかつての家長的男性よりも家族に対して無責任であり、逃避的でさえあるだろう。夫が抱くのは、自分の仕事への献身による収入の増加や社会的地位の向上が、結局は家族に幸福をもたらすに違いない、といった自己満足臭の濃い論理であり、それはビジネスにのみ顔を向けた男のエゴイズムでもあったろう。つまり理想としては時代の検証には耐えられぬ、主観的な半身像に過ぎなかったわけである。

■男性の防護壁が突き破られたのは、最も手薄となり、脆弱であった部分―家庭に他ならなかった。核家族と呼ばれる裸で剥き出しの家族が住む透明な家庭において、男性の優位は脅かされ、夫の地位、父親の権威は後退した。
 したがって、もしも夫が自然の欲求に動かされ、妻以外の女性と性的な関係を結んだ場合、発生するトラブルの質はかつてと同じではない。家庭が裸で剥き出しである分だけ、夫と妻の衝突は男と女のぶつかり合いになる。

■もしも夫が性的自由を求めるなら、それはひたすら非合法、隠密行動であるのが建前だろう。そしてことが露顕に及べば、多くの場合、夫は妻に陳謝し、モウ二度トコウイウコトハイタシマセン、と詫びる。離婚の覚悟まで固めているのでない限り、反省するから過ちを見逃してくれ、と手を合わせる次第である。彼は家庭を壊すことが怖いのだ。つまり保守的であり、家庭に夢をつないでいる。それは家庭に生活の基盤があると考えているからではなく、むしろ反対に家庭への密着の度合いが薄く、観念の対象としてそれを捉えようとする側面があるからかもしれない。

■また男性の中には、いかに核家族といった新しい環境下に育ち、自らも似た環境を作ったとしても、旧来の「家」から伝わる重い残響や現在の男性優位社会の余勢をかりて、女性よりも一層強く性的自由を求める傾向があるとも思われる。これにはいわば伝統墨守の側面があり、一部に慣性の法則さえ作用していよう。したがって夫の側には、男の性的自由には一つのルールがあり、その枠を踏みはずさぬ限りは家庭を保たれる、と考えるエゴイスティックな幻想が生き残っている。そして妻の側の犠牲を前提(仮定というべきか)にすれば、幻想が時にはなお、リアリティーを持ち得る可能性もある。

■核家族が自分の足で地に立とうとするならば、まず他人同士の結びつきがどれほど自由で、危険で、脆いものであるかを自覚せねばなるまい。結合の自由は、また離散の自由をも意味する。
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by epokhe | 2005-11-07 22:28
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