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electronicsというenvironment

いま、電子工学の時代になって、データ分類はパターン認識に道を譲る。
これはIBMのうたい文句である。
データが瞬間的に移動する時、分類は断片的にすぎる。
典型的な「情報過多」の状況で電気のスピードで流れるデータを処理するためには、全体構造の研究に赴かなければならない。
現在の学校における落ちこぼれ状況は始まったばかりである。
現代の若い学生達は電気によって構造化された世界で成人する。
それは車輪の世界でなく電気回路の世界である。
断片の世界でなく統合パターンの世界である。
現代の学生達は神話と深層の世界に生きている。
しかしながら、学校では分類された情報に基づいて組織された状況に出会うのである。
教科は相互に関連がない。
それらは青写真みたいに視覚的に構想されたものである。
学生は自分で関与する手段を見つけることができない。
また、自分では当然のものと思い決めている、電子工学的加工を受けたデータと経験の「神話」の世界に、教育の場がどう関係するのか見つけることもできない。
あるIBMの重役は、「わたくしの子どもはたちは、小学校一年生に上がったときに、その祖父母と比べると、数倍もの人生を生きていた。」と言っている。
子どもたちは学習過程に参加することが必要なのだが、それがうまくいかないために落ちこぼれ状況がますます悪化する。
この状況は「文化的に不利な子ども」の問題にも関係がある。
こういう子どもはスラム街にいるだけでなく、収入の上位の家庭のそろった郊外にも増えている。
「文化的に不利な子ども」というのは「テレビっ子」のことである。
なぜなら、テレビは低視覚指向性と高参加性を強いる新しい環境を提供し、それが古い教育体制への適応を極めて困難にするからだ。
この事態に対する文化的戦略の一つは、テレビ画像の視覚水準を高めて、若い学生が教室と教科課程といった古い視覚世界に近付きやすくしてやろうというものであろう。
一時的な便法としては試みるに値するであろう。
けれども、テレビは瞬間回路性をもった電気環境全体の一部をなすものにすぎない。
あらゆる手段を尽くして、既存の教育体制が拠って立つ、断片化した視覚の世界からの脱出推移を容易にしてやらないとすれば、愚かなことであろう。
実存主義哲学もまた、新しい電気の環境が及ぼす危機的圧力を指し示す反環境を表現している。
サルトルも、脱出口としては青写真も分類されたデータも専門分化した職務もむなしいことを宣言した。
「逃避」とか「仮の生き方」とかいった言葉さえ、電子工学の引き起こした人間の関与性の新しい場面から退いてしまった。
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by epokhe | 2006-07-10 22:34
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