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誤訳に基づく日本人の思考と行動

欧米文化の一つの土台をなす英語は、日本では明治期に大量に翻訳され、新たな「日本語」となった。
しかし、その中には明らかに「誤訳」であるものが数多く含まれている。
欧米文化を大急ぎで取り入れるためには、今まで日本に存在しなかった英語の概念を、自転車操業並みに大忙しで日本語に翻訳せねばならなかったのである。
したがって、翻訳の正確さのチェックは二の次となり、新たに充てられた誤訳が独り歩きするようになる。

たとえば、「success」は、ふつう「成功」と訳されるが、翻訳としては「続けることができる」「続けたくなる」のニュアンスが近い。
ある共同プロジェクトや商談で、そのときは完成や受注に至らなくても、引き続きその会社と組んでやってゆこうという良い関係を築くことができればsuccessfulと言う。
本来、継続性を前面に出した意味あいがあるのだが、「成功」というと1回きりの勝負となってしまって何か違う。

また「responsible」は、ふつう「責任ある」と訳される。
しかし、「責任」という言葉は重すぎる。
responsible は、本来「応答を返せる」ことで、要は会話を続けることなのである。
日本人は、responsibleを否かを問われると「責任」という日本語を思い浮かべ、「そんな責任はとりたくない」「そんな責任まではとれない」と逃げ腰になってしまう。
その結果、会議をしても何も決まらない。
決められない。
そして、外国人から相手にされなくなってしまう。

「education」は「教育」と訳されているし、訳語そのものを分解して、「文字通り、教え、育てることである」と説明されることも多い。
しかし「教え、育てる」では、上から目線の感がある。
本来educationは「才能を引き出すこと」で、教師はその手助けをするものである。

「philosophy」に関しては、知っている人も多いと思うが、本来は「知恵を愛すること」の意味である。
これまでの経験をふまえて、自分なりの考え方を持ち、それを分かりやすく伝えることに他ならない。
それを「哲学」と訳してしまった。
一般の人が「哲学」から連想するイメージは、形而上学的で超越的なものであろう。
本来は、ダイアローグという極めて「臨床的」な知がphilosophyであったにもかかわらず、モノローグな「哲学」が独り歩きするに至ってしまった。

誤訳に惑わされることなく、英語本来のニュアンスを体得することに努めるのが一番であろう。
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by epokhe | 2007-03-10 19:50
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