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ハウス・ハウザー・ハウゼスト

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ハウスとしての「家」。
家系や家柄や家元という時の「家」ではなく、「家」という箱。
つまり、抽象的な、理念として受け継がれていく「家」ではなく、物理的な、建物としての「家」。
その「家」と「家族」とどちらが重要だろう。
世の中を見渡してみると、家族が離散しても、「家」があれば何とかやっていけているように見受けられる。

「ファミリー」というイメージが虚構としての機能を果たさなくなってしまった現在、その「居心地の悪さ」が何に由来し、何を取り除けば何が残るのか、そして大切なのは何なのかを知るための、一種の極端な思考実験。
その最大の成果が、「家族」と「家」を分離することにあったということか。

仮に「家」が、「家族」という象徴的秩序に対して、外界から身を守るための居心地の良い物理的囲いを意味し、後者よりも前者の方が重要だと考えるとしても、そうなった時、「家」はいかなる場所にも設営可能で相対的な、それゆえに実体のないものに変化している。

ちょうど、ハウス・ミュージックの「ハウス」が、どんなに居心地が良くとも、
物理的条件としては文字通りの「ウェアハウス」、つまり倉庫の一種であったように、
家族という抽象化を失った「家」は、逆説的にそのことによって実体を失い、
大変移ろいやすいものとなってしまう。
「ハウス」は、シカゴの場末のクラブを発祥の地とする、ゲイ・ピープルのための
手作りのテクノ・ミュージックに由来している。
したがって、マッチョな演劇的世界はそこにはなく、むしろそうした世界から排除され、
抑圧されてきた人々が、他者からの冷ややかな視線にさいなまれることなく集い、
踊り明かすことができるための、外界から囲われた「家」という意味を持った。
この場合の家(ハウス)とは、したがって、その内部で何が起こっているかということよりも、
外から守られている、物理的に侵入者を妨げる箱である、ということが重要なのだ。
よって「ハウス」は、もちろんそこにはそれなりの友愛はあったものの、
過剰に強い連帯感や使命感、そして恋愛という既成のイメージによって縛られるような
ファミリー・イメージには乏しい。

居心地の良い「家」と、居心地の良い恋愛や絆といった血の結束を
両方とも真にモノにしている人物は、現在、物珍しい対象となってしまった。

ハウス以上のハウザーを、ハウザー以上のハウゼストを・・・。
求めていったらキリがない。


写真(青山・ラピュタ):M・S氏撮影
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by epokhe | 2004-08-25 19:11
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