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正常/異常

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前回までのブログで、精神障害の症例を5例、列挙してみた。
(現在、その記事は非公開にしてあります。)

しかし、「正常」と言われている人々、または「正常」と思っている人々にも
少なからず、似たような症候はあるのではないか。

そもそも、「正常」と「異常」との違いは本来何であったはずなのか。
その基準を、もう一度考えてみる。
平均・中間が正常、という「平均基準」。
理想に達していない人が異常、という「価値基準」。



写真(手賀沼):M・S氏撮影
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by epokhe | 2004-06-29 17:08

反復/差異

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発見と再発見との違いは、一つの経験とそれの繰り返しとの違いであり、
ここにおのずと反復ということが特別の意味を持ってくる。

大量生産などの場合のように、反復が完璧であればあるほど、
どこに差異があるのか、ますます(合理主義の立場からは)捉えがたくなる。

反復とは決して同一のものの繰り返しではなく、一種の差異の産出なのである。

反復の持つこの積極的な意味を明らかにしてくれるのは、
デリダ(『声と現象』1967)の「初めに反復があった」ということばである。

それは予め何かオリジナルがあってそのコピーがつくられるのではなく、
オリジナルそのものが既にコピーであることを示している。



写真(マルセイユのスクリュウ男):M・S氏撮影
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by epokhe | 2004-06-26 20:24

バフチン/対話/カーニヴァル

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ロシア人の文芸理論家、ミハイル・バフチンについて。

バフチンは、テクストを対話として捉える「対話の思想家」である。
発話としてのテクスト、というのがバフチンの根本的な考え方である。
テクストの主体は一人ではない。
テクストとは、複数の主体(=他者)が出会う所である。
応答可能性が、発話の境界だ。

また、バフチンの「カーニヴァル」という概念は、文学研究の枠を超えて
人類学、歴史学その他にも大きな影響を及ぼしている。
カーニヴァルとは、フットライトなしの、演技者と観客の区別のない見世物である。
カーニヴァルは観るものではなく、厳密に言うと、演じるものでさえなく、
その中で生きるもの、その法則に働きかけられながら、
それにしたがってカーニヴァル的生を生きるものなのである。
カーニヴァル的生とは、「裏返しの生」「あべこべの世界」である。



写真:M・S氏撮影
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by epokhe | 2004-06-26 19:04

グロテスク

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ヴォルフガング・カイザーは言う。
「グロテスクにあっては、われわれにとって身内の親近性のある近しかったものが、
突如無縁の敵意あるものとなる。」

ミハイル・バフチンは言う。
「グロテスクは、まったく別の世界、別の世界秩序、別の生活機構の
可能性をひらいてくれる。」


カイザーの説には、解体・死のイメージがある。

バフチンの説には、解体・死と「再生」のイメージがある。
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by epokhe | 2004-06-24 21:26

中心/身体/原点

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事実として、人間は自分を世界の中心と考えている。

例えば、“come”と“go”という概念がある。

“come”は、単に「来る」という意味ではない。
“come”とは、身体的な原点に近付いていくことである。

“go”は、単に「行く」という意味ではない。
“go”とは、身体的な原点から遠ざかっていくことである。

自分及び自分の身体が基準になっている。
絶対的な「あそこ」、「ここ」、「右」、「左」はない。
宇宙空間にも絶対的な中心はない。

人間が、何でも自己中心的に考えてしまうのは仕方ないことだ。
身体をもってして生きている、この日常世界が、
我々が生きている現実なのだから仕方ない。

しかし、他人にとっては、他人がまた世界の中心である。
他の「ある人」にとっての中心は、その「ある人」である。
このことも認めなくてはいけない。
求められるのは、寛容の精神である。
自分の他にも中心があることを、常に忘れずにいたい。


2004年6月19日


写真(リールソルラソルの犬):M・S氏撮影
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by epokhe | 2004-06-19 16:05

善悪

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善悪とは何だろう。

善悪には様々な意味がある。

まず、存在論的な意味。
プラトンは『国家』の中で、「よさそのもの」を「太陽のようなもの」としている。
なぜ、比喩でしか語れないのだろう?
きっと、存在論的には比喩でしか語り得ないのであろう。

次に、実用的な意味。
これは、「目的」との連関において語られる善悪である。
道具として。  (お人よし、など・・・)
能力として。  (頭が良い、など・・・)

そして、道徳的な意味。
「善い意志」は無制限に善い。
自由な「意志」の質がある。
行為が善かったり悪かったりするのは、
あくまで、行為が由来する善い意志や悪い意志の関わりにおいて、である。

「善い」は定義できない。
それは、「黄色」を定義できないのと一緒。
「善い」とか、「黄色」とかには部分がない。
机や椅子のように、部分があれば定義できる。
部分がないものは、どんなに頑張っても定義できない。

自分の周りにいる人間を、単なる手段として使用する時点で
悪の道を歩むことになる。


2004年6月17日


写真(マルセイユ・海):M・S氏撮影
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by epokhe | 2004-06-17 22:46

2つの自由

a0022584_152316.jpg(1)消極的自由 「~からの自由」

 ①他人の干渉からの自由
 ②自分の欲望からの自由


(2)積極的自由 「~への自由」

 ①自己決定する自由
 ②自律としての自由  (きめる⇒きまり、律=きまり)


以上のうち、他人の干渉からの自由は「政治的自由」であり、
自分の欲望からの自由、自己決定する自由、自律としての自由の3つは、
「道徳的自由」である。


2004年6月13日
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by epokhe | 2004-06-13 15:24

ボクシング/勝つ

a0022584_171937.jpg後楽園ホールに、ボクシングの試合を応援しに行った。
なぜなら、中学以来の友達が、
兄弟揃ってプロボクサーになったからだ。
数年前、二人が立て続けにボクサーとしてデビューしたことを知った時は、心底ビックリして思わず叫んでしまった。

二人は、プロボクサーとして試合を重ねている。
その度に、私は後楽園ホールに足を運び、
友人や家族と一緒に、息をのみつつ声を張り上げる。
彼らが一撃を喰らうと、私にもこたえる。
彼らがデカイのを一発喰らわせると、私も堪らなく爽快になる。
彼らが倒れる瞬間は、もう見ていられなくて私は崩れ落ちる。

ボクサーというのは、自分の道を見つけた人達だと思っていた。
ボクシングという道を・・・。
しかし、彼らのお父様とお話していて、そうではないことを知った。
ボクシングの中で、もがいているらしい。
ボクシングの中で学び、ボクシングの中で見つけているらしい。

私はいつも選手控え室にお邪魔しに行く。
そこに漂う空気の感触は、凄まじい弾力がある。
「私は、こんな簡単に呼吸をして生きていていいのかな。」と感じてしまう。
ストイックに絞られた肉体を目の当たりにして、
彼ら以外の人間の貪欲さを痛感する。

彼らが試合に負けた後、私に必ず誓う言葉。
「次は絶対勝つ!」
今、この試合が終わった瞬間、常に「次」しかない。
この繰り返しが続く。
終わりはない。

入り口で配布されたパンフレット表紙の言葉より
≪勇気は希望を生む
 夢に勝つ明日が待ちどおしい≫


2004年6月10日
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by epokhe | 2004-06-11 17:20

白い東京タワー/剥がれた首都高

a0022584_152837.jpgずっと、言葉のみで綴ってきたが、
本日からグラフィックも載せていこうと思う。

右の写真は、今日の東京タワーの佇まい。
今日は白い空に呑み込まれている。
その下を走る首都高の、錆びた姿が痛々しい。
首都高のペンキが塗り替えられるのは、いつだろう。


2004年6月9日
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by epokhe | 2004-06-09 15:14

しりあがり寿/辺境

漫画家、しりあがり寿氏が本学にいらっしゃったので、講演を聴いた。
タイトルは、「たまには怖い(暗い)マンガはいかが?」である。
以下、その内容について。


多摩美大を卒業後キリンビールに入社し、会社員をしつつ漫画を描いていた。
当時の会社というのは、たとえて言うなら、
「授業さえ出ていれば、どんなに成績が悪くても辞めさせられることはない」所。
社会で自分の位置を占めることで精一杯だった。

漫画家として、最初はとにかく、
笑われたかった、ウケたかった、皆にチヤホヤされたかった。

エンターテイメントは、サービスが細分化されている。
例えば、ホラー漫画、ギャグ漫画などのように分かれているのも、
薬やドリンクが機能分けされているのと一緒である。
しかし、効能や結果だけを大事にすれば、毒でもいいのか?

そうではない。
漫画を描く時、枠はあまり考えずに根っこの方を大切にしたい。
4コマ漫画~暗い(怖い)ものまで描いているが、全部自分である。
一人の作家から色々なものが出て当然である。
肉で言うならば、カルビやロースだけでなく、全部食べて欲しい。

大人のずる賢さで読者を選ぶ。
その意味でフニャフニャしている。
ブランドに縛られたり、色が付いてしまった途端に、他が捨てられてしまうから。

皆が描いたことのない、よく分からないものを形にしたい。
でたらめの、よく分からない海から、波打ち際に打ち寄せられてくるものを
集めて並べたい。

自分は「辺境の漫画家」である。
荒野の広がる辺境で、漫画を描いている。

お日様の匂いのする日の当たる教室で、ボーッとする充実を大切にして欲しい。
そんなに充実している時間は、二度とないのだから。


2004年6月8日
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by epokhe | 2004-06-09 00:21
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MAIL: epokhe@excite.co.jp


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