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ツラツラと

*新入社員で、自分と全く縁のない辺境地方勤務は相当こたえるらしい。

*企業のカラーは分かりやすい。

*会社ごとに、そこに勤務する女性一人一人の顔の系統が似ている。
 或いは、顔のパーツに共通点がある。

*人間は記号化されている。
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by epokhe | 2004-09-29 23:52

巨大隠蔽装置としての「戦争」

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ここのところ、比較的軽い話題が続いたので、
今日は少しヘヴィに、「戦争」について書きたい。

戦争は、それを語ろうとする者に「沈黙」のみを強いる。
戦争について我々はほとんど何も知らなかった。
「戦争」には、沈黙の空間が、語ることの何百倍、何千倍も存在する。

「知らないことを知る」のが「戦争」の言説や映像の最も深刻な体験だ。
「知らないということを知る」という体験の深刻さは「戦争」にきわまる。
なぜなら、「戦争」にあっては、今まで「知らないということ」が、
従来の「知る」言葉や文化の不備、歪みという消極性にだけ関わるのではなく、
「知らせない」「隠す」という積極的な働きかけに関わるからであり、
それによって「知らないこと」が強要されるからである。
この働きかけは、戦中戦後に連続する権力のみならず、
さまざまな集団、個人によってなされる。
「知らせない」「隠す」という社会的なネットワークが複雑にそして微細に形成されている
わけだが、それは戦争という出来事の、社会全体を包み込む大きさを物語っている。
こうした事態は、戦争の「敗者」であっても「勝者」であっても変わりはない。
しかも、その強要は、ほとんどの場合、
誰にもそれと気付かれることなく巧妙になされるばかりか、
誰もが自発的に「知らないということ」の囚人となるまでに効力を持つことが多い。

戦争の語りに、「自発的服従」してしまう。
戦争は「隠す」力が働く「謎」の出来事である。
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by epokhe | 2004-09-28 16:17

心友

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学部の男友達2人(KとH)と一緒に飲んで、ダーツをしてきた。
こういう3人の組み合わせの場合は、何と表現するのだろう。
男1・女2であれば「両手に華(花)」ということもあるので、
今日のように、男2・女1の時も、私にとっては「両手に華」だろうか。
「何て言うんだろうね?」と私が問うと、
「両手に黒!」と言われた。
黒2点に、紅1点・・・か。


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3人というのは、どうしても<2対1>という関係になってしまう。
3人の中のパーソナリティや地位などにもよるが、
今回の3人の場合、毎回、<「私とK」対H>という構図が成り立つ。
「対」と言っても対立するわけではなく、
私とKが、Hを突っ込みまくる関係だ。
いじられてヘマをするHを、私とKがまた弄り、
それによって再びHがトチる。
「弄る」と「苛める」は明らかに違う。
私達の場合は、関係を盛り上げるためのコミュニケーションの一形式として、
心地良い構図を維持しており、これによって誰か1人が壊滅するわけでもなければ
誰か1人に軍配が上がるわけでもなく、一人一人が可能性と限度を認識し合っている。
思いやりと真心あってこその「弄り」なのである。
清々しい皮肉とユーモアを交えてお互い関われる間柄というのは、
親友あるいは心友と呼べると思っている。
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by epokhe | 2004-09-28 00:15

On a sweet vacation

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自由が丘の"Sweets Forest"に行ってきた。
"Sweets Forest"は、
「スーパー・パティシエが贈る、夢のスイーツテーマパーク」らしい。
以前から、「行ってみたいね。」と少し話題になっていて、
急遽、本日行くことに決まった。
中には、スイーツのお店が8店舗ほどせめぎあっており、
入った途端に甘い香りが刺激する。


a0022584_20503895.jpg私達は、和風甘味"Neo Sitting Room!"のモチモチ巾着シューと抹茶ドリンク、
創作洋菓子"シリアルマミー"の焼きたてデセールを頂いた。
中の席が満席だったため、外の中庭デッキで「いただきます!」。
天気がいまいちだったのが残念。
完食したら口の中と胃の中が甘々(あまあま)になってしまった。

その後、自由が丘をブラリンコ。
自由が丘って「マダム」のイメージだったが、結構「フツー」だった。
「自由が丘は、大した事ない。」という結論に至った。
これ以上、自由が丘にいても仕方がないという事で、「とりあえず代官山まで歩こう!」となり、
歩き出した所、方向を真逆に進んでしまい、おまけに雨脚が強まってきたので
おとなしく電車に乗る。

代官山のショップ店員はしつこい人が多く、1点買いは許さない風情。
何か1点買う客に対しては、何とかして最低もう1点買わせようとする。
2点買い以上させた店員には、きっとインセンティブとかがあるのだろう。
あるいは、「1人につき必ず2点以上買わせるのがノルマだ!」みたいに言われているのだろう。
いっぱいお店もあるし、「テナント募集」になっているビルもあるし、生き残りが厳しいのね。
「景気悪いんだなー。」と思った。
モノを売ってやってくのって難しいね、しみじみ。

で、歩いていると、某女性ファッション誌の記者(編集者)とカメラマンの人が近付いてきて、
スナップ写真を撮らせて下さい、と頼まれた。
友人と私はそれに応じ、1人ずつ写真を撮られた。
前からや、横からや、斜めからカメラを向けられたので、合わせて適当に写っておいた。
次季に挑戦したいファッションや、今日のファッションのポイントやブランドを聞かれた。

代官山を回った後、渋谷まで歩き、渋谷からまた明治神宮まで歩き、
歩きながらも、店員批評や街批評や将来批評やファッション批評や文学批評を繰り広げ、
気持ちの良いエネルギーを使えた一日であった。
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by epokhe | 2004-09-26 21:01

「こうなったらもーあたしは笑うしかない」

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職場で会うバカな男たちと
このひとがいっしょじゃなくてよかったと思う半面、
バカな男には通用するがこのひとには通用しない
あたしのフェロモンが、
極めて三流に思えて落ち込む。

あたしはすぐに燃える。

背中にガスボンベ
片手にチャッカマン、

操作方法を誤り自爆。


           ―――悪いクセだ。

あ――あ
ずっとあんたのこと
好きだったんだけどな――ァ

ちきしょ――
殴ってやりて――ぐらいに愛しいッ。

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以上、魚喃キリコ 『短編集』より。

魚喃キリコ って「異才」とされてるらしいけど、異才というより、とにかくセツナイものを描く人だ。
彼女の作品のタイトルにもあるように、「痛々しい」。
描かれているGirlsは、私から見ると非常にガーリーな感じ。
或いはそれとはまた違う次元で、ヘテロセクシュアルを介したホモセクシュアルのGirls・・・。
つまり、同性愛を何とか補うためのものとしての異性愛が描かれることもある。
私が共感できる女の子も登場するし、もうどうしようもないような女の子も出てくる。
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by epokhe | 2004-09-25 17:30

シンプル以上の感覚

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本日は秋分の日なり。
恥ずかしながら、本日初にして、「初台」に降車した。
「いい日」とか「楽しい日」とか「美味しい日」とか「ステキな日」とか、
感覚的なものをシンプルに表現しようとする場合、
やはり、シンプルな言葉になってしまう。


私の母は元コピーライターだが、
「凝ったコピー」や「小洒落たコピー」を、
頭と体を捻らせて絞り出すという創造作業をしていた若い時代を経て、
その創造作業を実践する経験を積んだ後は、
結局、行き着くところはシンプルなものになる、と言っていた。


a0022584_2344882.jpgしかし、シンプルに表現しただけでは「不足」過ぎると私は感じてしまう。
言葉は「ちぐはぐ」過ぎて、「ぴったり」と感じたためしがない。
そういえば、荒川洋治氏が
「本当に思っていることを、うまく書けない文章のほうが
ときには文章としては上である。」
と言っていた。
そうだ、言葉は空語だった。

修飾に修飾を重ね、
暗喩に暗喩を重ね、
直喩に直喩を重ねる、
という表現方法は、きっと通過点でしかないのかもしれない。

でも、ただ茫漠とあるのは「産みの苦しみ」。
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by epokhe | 2004-09-23 23:44

とある東照宮

a0022584_1954184.jpg東照宮に案内された。
まさか、こんな所に連れて来られるとは全くの予定外。
入り口からココまでに林立する石灯籠の大きさと位置は、
当時の大名の石高に比例するみたい。
200円で昇殿参拝券を獲得できる。
国宝の中に入ることができるのって珍しい。
しかも200円で。
昇殿に向かう途中、落ち葉の片付けをしていたオニイサンが
思いのほか色っぽくてこれまた予定外。

でも、酷すぎる。
「ボロッボロ」じゃないか・・・。
内部の漆塗りも金箔も剥げまくり。
狩野派の壁画も薄汚れまくり。
壁の上部に飾られた百人一首だって、
せめて額に入れるなり何なりしなきゃ、もう見るも無惨な状態。
要するに、ほったらかしの極限。
私達は何とか見られるからいいけどさ、このままじゃ後世にはまず残らないね。
金かけてもいいから、金箔貼り直すなり、壁面塗り直すなりしてよ。
宮内庁、頼むよホント。
と、ここを訪れた人は全員思うはずだ。
「国の予算がないんですよー。」と言われるんだろうけど。


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「金色殿」が泣いてるわ。
もはや「こんじき」からは程遠い。
銅板の何やら貴重な屋根は、日本に2つしかないのに。
大石鳥居は、関東大震災でも微動だにしなかったほど
基礎工事が完全で、建築界の驚異の的となったのに。
国宝も蔑まされたもんだ。


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東照宮に訪れるという非日常的な体験をして、
非日常的な感覚を覚え、
非日常的な憤怒の兆しと、
非日常的な悲哀の念が沸き上がったという、
非日常。
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by epokhe | 2004-09-21 19:15

屋根裏の散歩者

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≪彼の不幸は、世の中のすべての事柄に興味を感じないで、
事もあろうに「犯罪」にだけ、いい知れぬ魅力を覚えたことでした。≫

というのは、江戸川乱歩『屋根裏の散歩者』(1925)中に出てくる
フレーズである。

これについて、高橋敏夫センセの視角の一部を以下に。

*******************************

東京を中心とする大都市は、生活にさほど不自由しないが現状にも満足できない
学生やサラリーマンを大量に生みだしていた。
江戸川乱歩の代表作のひとつ『屋根裏の散歩者』の主人公、
25歳の青年郷田三郎もまた退屈をかこう人物にほかならない。
物語は冒頭から、郷田三郎の世の中にたいする幻滅、失望、退屈さ、を
くりかえし、くりかえし、執拗なまでにえがいている。
「どんな遊びにも、どんな職業にも、何をやってみても、いっこうこの世が面白くないのでした」。
郷田三郎は学校を出ているがエリートというわけではない。
学校を出た者がそのままエリートである時代はとうにすぎた。
いわゆる大衆社会の成立である。
わたしたちの社会の原型がここにあるとすれば、郷田三郎は、あきらかに、
現代の青年の原型のひとつといってよい。
永くて1年、短いのはひと月ぐらい、職業から職業へと転々とする郷田三郎と、
現代のフリーターとがかさなって見える。

********************************

「現代小説」には「人間の解体」が積極的に取り上げられるけど、
こういった「近代小説」には「人間の生成」が定着されている。
だから、80年も前の作品にだって、現代の人間像が生成されている。
現代小説から「人間」が消えた、と指摘されて久しいが、
近代小説にはそれが無数に立ち上がり、その宝庫だと言える。
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by epokhe | 2004-09-20 22:36

考える人を考える人

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都内某所にて、70歳のインテリ&アート系オジサマと遭遇する。
私が芸大(東京芸術大学)の学生だと思ったらしく、
ロダンの『考える人』というのは一体何を考えているのか
教えてほしいと請うている。
「あの『考える人』は、下の地獄の門を見ながら何を考えているんですか?宗教的な意味があると思うんですが、キリスト教についても詳しくは知らないし、何度見ても理解できないんですよ。」
と、おっしゃっている。
私が、
「≪死≫についてです。」
と、唐突に言うと、
目と口を見開いて喫驚の表情をお浮かべになったので、ひとまずキリスト教の背景について、
私の連れが
「キリスト教って、天国と地獄の二分化がはっきりしてるんで、・・・(以下省略)。」
みたいな説明をすると、オジサマは
「なるほど、そういう説明をしてもらえると段々分かってきます。」
と、喜んでいる。
歴史的・宗教的な解釈の他に、連れがオジサマに下した結論は
【『考える人』っていうのは、あの『考える人』を見た人間が、「あの人は一体全体何を考えているんだろう?」と「考える」ことから始まるんじゃないっすか?!見た人間一人一人を「考えさせる」ことが狙いで創られてるよなー。この世界で生きている人間って何か?自分を含めた人間というものはどういう存在なのか?とか、考える内容は大して問題じゃないんすよ。あれを見ながら同じ格好して考える行為をさせることが、まず初段階の意図っすね。】

オジサマはフムフムと聞いていらした。
背筋がシャンとした、身も心も若いお方であった。
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by epokhe | 2004-09-20 13:17

記憶とパイロットフィッシュ

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ご紹介頂いた、大崎善生『パイロットフィッシュ』を読んで。

ここに登場する人物は、皆、憐れである。
憐れで焦れったくて、何かにつけて「記憶」のせいにする。
この小説は、「記憶」と「水」の物語であると感じた。

冒頭は、≪人は、一度巡り合った人と二度と別れることはできない。なぜなら人間には記憶という能力があり、そして否が応にも記憶とともに現在を生きているからである。≫という文章で始まる。
いい「水」という環境を創り出し、
他が生きるための「生態系」だけを残して死んでゆくパイロットフィッシュ。
「水」というのは、レストランで出されるグラスに入った水でもあるし、
我々が生きる世界そのものでもあるのだろう。
そして、パイロットフィッシュは、世界の中の人間一人一人でもあるかもしれない。
だから、これは「記憶」と「水」の小説なのだ。

ただ、ここで扱われる「記憶」、著者が言わんとする「記憶」には
幾らかの物足りなさを私は感じる。
主人公らが考える「記憶」は、まだまだゆるい。
甘えていて「おセンチ」で脆い。
もろくて感傷的で見ていられない。
例えば・・・、
≪記憶はゆらゆらと不確かに、それでいて確実に自分の中に存在し、それから逃れることはできないのだ。≫
≪どんなに忘れたい過去も、若さと感性だけで言い放った思い出したくもない浅はかで残酷な言葉も、自分の一部として生き続けていてそれだけを切り離すことは、不可能なのだ。≫
などとある。
もう少し「記憶」についてイメージを膨らませてくれても良かったのではないかな、と思う。

確かに記憶はそのままだ。
だが、たとえ悲惨で暗い過去でも、時としてハッピーカラーに塗り変わることだってある。
つまり、記憶という事実は変わらなくても、
その後ろに流れるメロディによって、それは塗り変わる。
昔は、ある陰惨な記憶と一緒に、気味悪く恐ろしい曲が流れていたとしても、
今は、その記憶のバックにいつも美しい音楽が流れている、ということも有り得る。
BGMが変われば、見え方だって変わる。
人間は恐らく記憶を変えることはできないが、BGMくらいは変えられる。
記憶も人間も、もっと重奏的なものだ。
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by epokhe | 2004-09-18 17:38
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