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クラッシュパンチシリーズ


ボクシング観戦のために後楽園ホールを訪れるのは、これで何度目だろう。
数え切れない、というか覚えていない。
今日も、後楽園ホールにて、友人のプロボクサーを応援してきた。

ボクサーって、つくづくカッコイイね。
カッコだけがイイのではなくて、精神もイイね。
顔つきが凡人と違う。
体つきが凡人と違う。
精悍すぎて溜め息が出るほど。

「労働」と「仕事」って明らかに違うと思う。
ボクシングは労働なんぞではない。
彼らは命懸けの仕事をしている。
私なんかは太刀打ちできません。

私もボクサーになりたい。
尊敬します、心から。


ボクシング関連の記事はこちら↓
ボクシング/勝つ
Tomorrow's Champion
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by epokhe | 2004-12-16 00:15

一期一会

KIHACHIカフェの前にて、弟と順番待ちで座っていると、伊勢丹のショッピングバッグと大きめの鞄を持った、恰幅の良い中高年男性一人が私達の後に並んだ。
列の順番が進み、席をずれると、
「席つめなくちゃいけないのかな。面倒だな。」
と、その男性は一人で言っている。
普通の人ならシカトするだろうが、弟は、
「いいんじゃないですか?!大丈夫ですよ。」
と、答えてあげていた。
で、私も笑顔で頷いておいた。
確かに、荷物多くて大変そうだし、次に人は並んでいないから、人が来るまで席をずれる必要はないだろう。
すると、その男性は一気に嬉しそうな顔になり、私達を笑顔で眺めている。
そして、
「どうだい、2人は結婚については。」
と話し掛けてきた。
どうやら、私達はカップルに見えたようだ。
私が、
「私達、キョウダイなんですよ。」
と答えると、男性は「あぁ、なんだ、そっか、ナルホド」というような表情をした。
そして、弟が
「似てますか?」
と訊くと、私達2人の顔を交互に見比べて、指を差しながら
「いい男!!!いい女!!!」
と言い、満面の笑みで上機嫌のオジサマ。
挙げ句の果てには、
「一緒にお茶でも飲みましょう。ご馳走するよ。私はすぐに帰るから。」
と言い出した。
私達は慌ててお断りし、
「そんなことなさらないでください。後から人も来ますし。」
と、恐縮しながら断っていても、
「いいから、いいから。他の人も後から来るなら、伝票持ってきなさいよ。ご馳走しますから。」
と譲らない。
結局、数千円を強引に弟に渡し、
「ご馳走させてよ。私は60歳ですけど、こんなイイ兄弟は初めてだ!!感動した!!」
と仰った。
私達が、悪いです、困ります、と何度言ってもキッパリとした態度のオジサマ。
最終的に、深々と御礼を述べ、お金を受け取った。
オジサマは、どうってことないようだ。
服装や立ち居振る舞いから察しても、かなりのお金持ちオジサマと見た。
見ず知らずの人から、いきなりお金を戴いたのは初めてかもしれない。
でも、私達は何一つ親切をしたわけでもなく、ただ普通にボケーッと並んでいただけなのに。
私達の顔が、オジサマの好みの顔だったのだろうか。
赤の他人に絶賛されるような顔ではないと思うが・・・。
それとも、愛想の良い仲良し兄弟に見えたのだろうか。
見ず知らずの他人には、完璧シカトが前提のTOKYOだもんね。
TOKYOは無愛想人間が生きる街だもんね。
でも、こんなことが世の中にはあるんです。
これこそ、まさに一期一会。
もう二度と逢わないであろうオジサマに、もう一度、ありがとう。
そしてオジサマ、もしこの記事を目にすることがありましたら、是非ご一報ください。
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by epokhe | 2004-12-15 23:09

六本木ヒルズにて流血

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六本木ヒルズで負傷してしまった。
回転ドアにミンチにされたわけではないけど、某地点にて怪我をしてしまった。
肉が剥げました。
肉塊が削ぎ落とされました。

悉く人間に冷たい場所だということを知らしめられた。
まさに文字通り、身をもって体感しました。
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by epokhe | 2004-12-14 22:52

セレブ&お嬢様

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某女性ファッション誌を見ていたら、以下のような見出しがあった。
今に始まった見出しではなく、少し前からよく見る見出しである。


≪「セレブOL」はひとクセコートで冬支度!≫

「セレブOL」ってナニ???
そもそも、「OL」って時点で既に「セレブ」なんかじゃない気がするんですけど。


≪「お嬢様OL」、SHOPで冬Style!≫

「お嬢様OL」って・・・。
いいかげんにしてください。
お嬢様なんていないじゃん。
いるけど、大量発生するもんじゃないでしょ。


悪いけど、彼女達の味方をするのは疲れます。
「セレブOL」とか「お嬢様OL」とかの味方したくない。
そんなフリできるのも短いんだから、あんまり天狗にならない方がいいよ。
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by epokhe | 2004-12-13 23:41

分裂

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「精神分裂病」というものがある。
精神医学会において、この病名は良くないということで、現在では「統合失調症」という、あまり迫力のない名前になっている。

この「統合失調症」の症状と、「ひきこもり」の人の精神状態は似ている。
統合失調症患者は、自分で自分をコントロールすることができない。
他人とのコミュニケーションができなくなり、感情移入もできない。
人の声は「声」として聞こえず、「音」として聞こえてくる。
周囲の風景は平面の絵のように見え、二次元的である。
自分と事物との間に交流がない。
その他にも、多くの症状がある。

他と関わらないで生きていく「ひきこもり」と、以上の症状には共通点があり、そういった意味で、私は、ひきこもり批評 ~他者との関わりと1つの自我~の記事にて、「心の病と他人との断絶は並行関係にある」と述べた。
他者がいない世界では、分裂したって構わない。
自分だけの世界なら、1つの自我である必要はないのだ。

ところで、この「統合失調症」というのは不思議な病気で、昔々の古代から、ずっと一定のパーセンテージで患者が存在する。
全世界のどの階層をとっても、統合失調症患者の率は同じである。
昔からの古い古い病気であるにもかかわらず、ずっと同じ率で、その率が高すぎる。
人類にとって有害なら淘汰されていくはずであり、他の普通の病気ならそれが一般的であるが、統合失調症に関しては、患者率がずっと一定である。
人類にとって、「統合失調症」には、マイナスの意味と同時にプラスの意味もあるのか。
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by epokhe | 2004-12-12 14:40

ひきこもり批評 ~他者との関わりと1つの自我~

「ひきこもり」という言葉がよく出回っているが、よく出回っているということは、それだけ多くの「ひきこもり」という事実がある、ということを意味している。
実際、自分で自分を「ひきこもり」と言う人が多いのも事実。
自分で自分を「ひっきー」とか言ってる人もいる。
他人と関わらずに自分の世界に浸った方が、いわゆる「本当の自分」になっているのか?
「ひきこもり」の人間に関しての報道を見ていると、どうやら違うらしい。
「ひきこもり」というのは、歪んだ、屈折した、異常な生活形態として捉えられている。

自分自身に出会うためには自分だけでは駄目である。
他と関わることによって自己を自覚する。
いわゆる「心の病」と「他人との断絶」は並行関係にある。
他人と断絶することによって、徐々に人格が崩壊していく。
つまり、他人と関わらないで生きていくということは、自我が萎縮していくことを意味する。

その根拠。
たった一人で生きている場合、毎日同じ自我である必要がないから。
一人だったら、どんな自我でも構わない。
気分でどんどん変えていっても問題ない。
だが、実際はそうもいかない。
自我は一つでなくてはいけない。
どういうことかというと、我々には、他人に対して同じ自分でなくてはいけない、という一種の道徳的要請がある。
道徳的要請とは、強い制約・縛りであり、社会的義務とも言える。
例えば、他人に金を借りて何年も返さずにいたら、金を貸した人間が返してくれと言う。
その時、「あの時、君にお金を借りた私は、今の私とは違う。」と言うわけにはいかない。
この発言は許されないだろう。
金の貸し借りだけではない。
愛情についても問題になる。
「あの時は、あなたを愛していたけれど、今はもうあなたを愛してはいない。昔の私と今の私は違う。」というのはどうか。
こう言われた当人は、恐らく問い詰めるだろう。
今の世の中、愛の誓いに対する裏切りには厳しい処罰が下される。
特に結婚した場合は顕著。
だが、「もう愛していない」という事実はどうしようもないし、善悪以前のナチュラルであることは確かだ。
モラルや価値観を利用して、かろうじて成り立っているのが世の中。

「私」の成立に、良い意味でも悪い意味でも、否応なく他人が関わっている。
自分の世界に閉じこもることは、多かれ少なかれ自分を失っていくことになる。

勿論、他者との関わりには、妥協や馴れ合いや葛藤がつきもの。
日本では、他者との対立が曖昧に避けられがちだが、時には対立も必要である。
他者との摩擦や対立は切り抜けていかなくてはいけない。


Cf.他者論
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by epokhe | 2004-12-10 17:45

スルジャン・ドラゴエヴィッチ監督『ボスニア』

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セルビアのスルジャン・ドラゴエヴィッチ監督『ボスニア』を観た。
『ボスニア』の原題は、『美しい村は、燃えるときも美しい』。

震撼!
安易に感想を羅列したらバチが当たるけれど、私からは安易な言葉しか洩れてこない。
凄い。
凄まじい。
爽快。
興奮。
衝撃的。

トンネル内での停滞と、3つの「時」の斬新な映像。
今ここで生きる私にとっては斬新だが、でも、それは現実。
それが現実。
ユーゴの栄光が、テープカットでの指の切り落としによって、象徴的に切断される。

3つの「時」が混合し、なにが「中心」かが消滅する。
廃坑での夥しい死体と、2人の少年。

私達は、「見たいもの」が観たいから、映画を観るのではない。
「見たくないもの」が観たいから、映画を観る。


Cf1.戦争の時代とはなにか―――<帝国>を内乱へ
Cf2.ethnic cleansingと戦争広告代理店
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by epokhe | 2004-12-09 19:16

時空の縮減・触覚優位

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ポストモダンは、果たして本当に「ポスト」モダンか?
「ポストモダン」と言われているものは、極めて近代的である。
「ポストモダン」は、むしろ近代との繋がりの方が強いのではないか?
近代というのは、人間中心主義社会であった。
明治以降、「国民国家」は、人間理性を軸として発展した。
ここでの人間理性というのは、学問や科学や技術である。
よって、国民国家論・学問論・技術論は、切っても切り離せない。
ポストモダンには、こうした「ウルトラモダン」としての側面もある。

情報社会によって美しい幸せな世界に、という一種の福音主義的な言説のもとに、人間は、とにかく「時空の縮減」に努めまくった。
「時空の縮減」のために、あらゆる労力を費やしてきた。
計算処理(コンピュータ)によって時間が縮減され、通信技術によって空間が縮減された。

グーテンベルク革命によって、活版文化・活字文化が生まれた当時、人々は「視覚優位」の世界を生きた。
「視覚優位」の時代は、まだ、自分で時間を持つことができた。
考えたり感じたりすることができた。

その後、情報第2革命によって、電子文化が生まれ、人々は「触覚優位」の世界を生きている。
「触覚」というのは、身体性とか肉体性ということである。
人々の感覚をメディアが規定している。
メディアが身体になっている。
「触覚優位」の時代には、人々は自分で時間を持つことができない。
時間を持っていないため、時間を消費することすらできない。
それくらい速度が速すぎる。

情報通信機器がメディアとなり、例えば、チャットなどは文字を扱うので、これは近代的であるが、ネットサーフィンなどをしている時の人々の精神状態というのは、何も考えていない状態である。
それは反射的であり、考えたり感じたりする時間を持てていない。

時空が縮減され続けてゆく世界に、福音主義的スローガンは、儚く散ってゆくのか。
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by epokhe | 2004-12-09 00:16

Scienceも批評主義の時代

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朝日新聞の科学医療部長である尾関章さんとお会いしてきた。

その中で、科学に批評がないのはおかしい、という話になった。
映画評論や劇評があるように、科学にも批評があって良いのではないか、ということだ。

科学批評家がいない理由として、まず、「素人には分からない」という点がある。
専門性が高い、ということが理由となるが、果たして本当にそうか。
映画評論をしている人間は、決して専門家ではないけれど、勝手に批評したり感想を述べたりしている。
大体は、映画をつくったこともないフツーの素人オジサン・オバサンが批評している。
同様に、演出家経験がなくても劇評はできる。
しかし、例えばノーベル賞をとった研究内容について、批評する人間はほぼ皆無。

次の理由として、客観性が挙げられる。
だが、研究者の評価だけが関心事ではないはずだ。
数学のある分野になると、批評し合って最高峰を決める数学者が5人しかいないこともある。
たった5人の中で世界の最高峰を決定するという事実は、驚きである。

また、科学は非娯楽という理由があるかもしれないが、発見のドラマが面白い時代になっている。
科学というのは表現法の問題で、コアの部分では文学的モチーフなのだ。

尾関さんは、科学心は文学につながると言っていた。
でも、私が思うに、サイエンスとアートを比べたら、サイエンスよりアートの方が格が上である。
なぜなら、サイエンスは伝授可能だが、アートは伝授不可能であるから。
だから、サイエンスがアートにつながるというより、サイエンスがアートを追いかけるのである。
よって、科学のコアがアート的というのは至極当然な気がする。


尾関さんは、ご多忙の中、進んでメールアドレスを教えてくれるなど、感じの良いお方であった。
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by epokhe | 2004-12-05 15:48

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オダギーが石原裕次郎新人賞をとった。
めでたい。
『血と骨』にて、たけしの息子役。
『血と骨』の原作者、梁石日(ヤン・ソギル)さんは、私のセンセが個人的にプライベートで最も親しくしている作家の一人である。
オダギーは、いつも狂った役やイッチャッてる役や変態っぽい役が多い。
『アカルイミライ』でも、うまい具合に狂ってた。
彼の目の下にある、あの種のクマは、他でもなく彼が「ヤク中」であることを表している。
そして、彼のお顔の鼻から下は、長井秀和と酷似している。
嘘だと思ったら、彼らの目から上をちょっと隠してみてください。
おんなじになりますから。
お二人の口唇が私は好きだけど。
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by epokhe | 2004-12-04 13:29
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