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他者論

「他者論」を大きく二つに分けてみた。
ちょっと強引だけど分けてみた。

【融和的他者論】
ブーバー
マルセル
メルロ=ポンティ
ハイデガー

【対立的他者論】
サルトル
レヴィナス
ヤスパース


対立的他者論の方が刺激的なので、まずはこっちから。
その中でも際立った主張者であるサルトルはこう言う。

他人とは私に「まなざし」を向けてくるものである。

この「まなざし」とはregard(ルガール)で、英語ならリガード。
他人が私にまなざしを向けるということは、私がオブジェ(客体)になってしまうということである。
自分が自由な主体ではなくなることを意味する。
他人の世界の中に、自分が一つの事物として組み込まれてしまう。
だから、「まなざし」はとても不気味で腹立たしいものなのだ。
では、どうしたら良いかと言うと、自分がまなざしを向ける側に回ればいい。
自分が他人を自分の世界に取り込んでしまえばいい。
これは、火花を散らす闘いであり、永遠に終わる事のない闘いである。
例えば、ある人間に恋人や配偶者がいるとして、お互い信頼し合っているつもりでいる。
しかし、これは表層的なものである。
恋人同士、配偶者同士というのは、自分が他者のものになるか、他者が自分のものになるかの闘争関係を生きている。
つまり、まなざしを向け合い続けている。
これは、死ぬまで続く。

サルトルにとって、「死ぬ」とは「生きている者の餌食になること」である。
「死」は、「完全に他者の餌食になること」である。
他人によって意味を与えられるだけ、ということ。

確かに、他者の餌食になるのは死んでからで十分だな、とチョット思ってしまった。


Cf.ひきこもり批評 ~他者との関わりと1つの自我~
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by epokhe | 2004-12-03 17:42

金と気晴らしとパスカル

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やっぱり、お金をいっぱい使ってる人って、基本的にヒマな人だと思う。
忙しくて忙しくてどうしようもない時、大してお金なんて使わない。
根本的なお金しか使ってない。
こんなにお金を使わなくてもフツーに生きていけるもんかと感心する。
今まで使ってたお金は一体何だったんだと疑問に思う。
お金を使うヒマもない、とはよく言ったものである。
金を使うことで時間を過ごしている人は、それもまた気晴らしなのであろう。

学問も戦争も仕事も、全て「気晴らし」だとパスカルは言っていたが、
そう言われてしまえば、それまでの気がする。
言っちゃったもん勝ちですよ、パスカルさん。
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by epokhe | 2004-12-02 23:13

シンクロ/マイナスカテゴリー/癒し

今から7~8年くらい前だろうか。
エヴァンゲリオンが流行った。
私は全然フリークではなかったけれど、クラスに2、3人はエヴァフリークがいた。
「エヴァ現象」というのは1996年の8月から10月あたりを境に少し変化した。
当初は、コアなマニアがインターネットやパソコン通信や、あるいは個人的なネットワークの中で、あれこれ言っているだけの話だった。
ところがマスコミが色々「エヴァブーム」を取り上げ、年が変わってから映画が話題になり、『エヴァ』を観る人、特にビデオで借りて観たという人が増えて、いわゆるコアなオタク層から離れて一般層にかなり広がった。
普通の学生が観る、あるいは普通の若い人たちが観るという状態で、なおかつハマっているところがポイントである。
さらに言えば、「エヴァ現象」と従来のアニメの違いは、『宇宙戦艦ヤマト』以来二十年ぶりかもしれないが、世代の幅が広いという点である。
だいたい小学生から四十歳位の人までにおよび、これは現象としては相当変わっている。
そしてこの展開については、「碇シンジ」というキャラクター設定がかなり大きいと思う。
アニメ製作者・映画監督である庵野秀明氏が意識してやっていることだと思うが、若い人は、キャラクターに自己同一化してハマっていることが非常に明確である。
調査によると、中学生・高校生の女の子はアスカとのシンクロ率が異様に高いという。
私のクラスにもいたよー、アスカとシンクロしちゃってる子。
キャラクターにハマるのは、それがメタファーだからだと私は考える。
つまり碇シンジやアスカは、家族に「捨てられた」と言っており、誰からも必要とされていない。
だからエヴァに乗って誉められることだけが自分の存在意識だと感じることができ、エヴァに乗って戦う時だけ必要とされていると思える。
逆に言えば、エヴァに乗って戦わない限りは、世界は自分を必要としてくれない。
これは、非常に凡庸な設定である。
「条件付き愛情」という、よく教育現場などで問題になっているが、良い成績を取っていれば、いい子にしていれば誉められる、そうでない子は要らない存在として扱われる、ということのメタファーだと考えられる。
そもそもシンジ、レイ、アスカなどのエヴァ搭乗者は、全員社会とのシンクロ率が悪く、うまく生きられずに悶々としている。
結局シンクロ率の悪い人間だけが、エヴァとシンクロできる、というのが非常にメタフォリカルである。
これはちょうど香山リカ著『テレビゲームと癒し』(岩波書店)という本に出ているパターンと同じである。
現実をうまく生きられずに色々と問題を起こす子供は、ゲームの中で上手く生きられる、ということがあり、その意味で凡庸なメタファーだ。
また、五人の主要登場人物は、全盲の社会学者である石川准氏の『アイデンティティ・ゲーム』という本に出ているキャラクター類型とほぼ造形が一致している。

一方、「エヴァ現象」の少し前から「アダルトチルドレン」や「拒食」「過食」という言葉が流行した。
そして、以前だったらあり得ないが、「僕はアダルトチルドレンなんです。」あるいは、「私、高校時代、拒食でした。」などと、公言する人が急増した。
『エヴァ』のお陰で自分のことをマイナスカテゴリーで括るためのボキャブラリーが増えたようである。
その意味で言うと、これらの言葉というのは、現代の若者を楽にしているように感じる。
辛いけれども、言うと楽になる。
キツイけれども、言うと楽になる。
考えなくて済む枠組みの中で、生き方を教えてもらい楽になるという世界である。

次に、現代の「癒し」と『エヴァ』について少し考えたい。
「癒し」を必要とするための条件は色々ある。
昔のように、お金がなくて疎外されて癒されたいわけではない。
お金をもらって癒されたくないのである。
では、「癒し」を必要としているのはどういった人かというと、つまり「ここはどこ?私は誰?」と思っている人たちだ。
「ここはどこ?私は誰?」というのを言い換えれば、意味を探しているのである。
でも意味が継続的に見つからない。
「何でこんなことやっているのだろう」「何でエヴァに乗っているのだろう」・・・これは、そうすると人が喜ぶからという、とりあえずは意味ある答えがある。
それならば、人が喜ぶことなら何でもするのか、そうまでして生きるのか。
そこまでいくと、結局意味が消えてしまう。
つまり「癒し」を必要とするとはどういうことかといえば、意味を求めるが見つからない、意味を探しているが見つからないと悩んでいる人間が、それでも良い、あるいはそういう自分で良い、というふうに思いたいということだろう。
人間は必ず意味を求めるというが、意味がなくても生きられる人たちもやはりいる。
伝統社会の人間はもともとそういうものである。
意味がなくても生きられるタイプの人間が徐々に出てきていて、それでも違和感があって辛いという人が『エヴァ』的物語に癒されるのではないか。
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by epokhe | 2004-12-01 17:13
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