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映画『ジャスミンの花開く』

“時が経てば違ってくるわ”
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映画『ジャスミンの花開く』鑑賞。
直視できないシーンがあった。
ソーゼツな三世代。
ソーゼツに生きた三人の女性。
我々が「ソーゼツ」と感じる生き方というのは、確かに理論的な生き方ではないかもしれないが、最も情動的で本能的な生き方である。
お行儀の良い、理屈付けで済むような生き方は、そこらじゅうに石ころのように転がっている。
何かを抑圧してでもお行儀良く生きたい、と大多数の人々が望み、なるべく理屈から外れたことはしたくないと願う。
「フツー」でいたいと切望している。
しかし、果たしてそれでいいのだろうか。
私は、自明のものに挑むという悪い癖を持っているので、色々と不便が多い。
とは言え、現実生活では、いたってシンプルで、とにかく感覚(感性?)を信じている。
鷲田さんが「普通を誰も教えてくれない」という本を書いていたが、本当にその通りだ。
一つ思うのは、普通を目指していたら、普通にすら到達しないということだ。
妙な予感なのだが、私自身は、普通に憧れて普通の幸せを理想としながらも、普通では済まない境遇に陥るのではないかと、根拠なく感じている。
あくまで予感だが、なぜかそう思う。

チャン・ツィイーは、とても可憐で綺麗だった。
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by epokhe | 2006-06-28 20:28

「見た目」=「娘より大切なもの」 ~化粧がないと死んでしまう~

渋谷署から出てくる母娘@「女子大生誘拐事件」

明治学院大学経済学部4年生の池田果菜子さんが身代金目的で誘拐され、12時間後に無事保護された。
果菜子さんの母親は、豊胸手術のカリスマで、時給100万円稼ぐ女医。(年収4億円)
離婚後、女手一つで果菜子さんを育ててきたという。(まあ、年収4億あれば、「女手一つ」といっても「男手」以上ですが…。)
代官山(?)にある自宅は3億5000万円とかで、その車庫には外車が何台もある。
このニュースを聞いた庶民は、「かわいそうに」と同情するのか、はたまた「ざまあみろ」といい気味に思うのか。
渋谷署から出てくる時、果菜子さんのお母様が、自分のなりふりなど構わずテキトーな服装で、ノーメイクで登場していたら、庶民はこのニュースに関してまた違う印象を持っただろう。
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by epokhe | 2006-06-27 18:03

名前と人

セーシンジョシダイ卒のcuteな某女史から、
「私と同じ○○にepokheさんと雰囲気がそっくりの子がいて、雰囲気が似てるだけじゃなくて名前まで似てるからドキッとしちゃいました。」
と言われた。

名前というのは、その人の親が付けるものなので、名前を聞くとその人の親の良識が判る。
名前の陰には親のセンスが隠れている。
私には弟がいて二人キョーダイなのだが、不思議なことに、キョーダイ揃って我が家と同じ名前の知り合いがいた。
オネエチャンの方は私と同じ名前で、その子の弟は私の弟と同じ名前だった。
案の定、彼らのご両親とうちの親は気が合った。

私の母は、「名前なんて記号なんだから、呼びやすいのが一番なのよ。変な漢字の名前つけたり、誰も一発で読めないような名前つけたりしたら、名前の意味がないじゃない。」と昔言っていたのを記憶している。

名前には意味があるかもしれないし、ないかもしれない。
けれど、私と波長の合う女の子の名前の末尾は、私の名前の末尾と全員一緒である。
その人やその人の親の感覚の切れ端は、名前から得られる可能性がある。
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by epokhe | 2006-06-26 14:22

映画『ココシリ』

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映画ココシリ鑑賞。
チベットの山って、とてもスピリチュアル。
あんな山々の中で暮らしていたら、人生観変わるだろう。
映画中で、日本語に良く似た単語が出てきたので、「チベット語って日本語と似てる!」と思ったのだが、よくよく考えてみたら、日本語と同じアルタイ語族はモンゴル語なので、私が聞き取れたあれらの単語はもしやモンゴル語?
「ココシリ」とは、チベット語で「青い山々」、モンゴル語で「美しい娘」を意味する。
壮絶な自然と共に生きる人々は、都市に棲息する私とかけ離れていて、どうしたらいいか分からなくなった。
チベットの男性は、日本でそこら辺を歩いているようなオッサンと似たような顔の造りをしているのに、顔色や顔付きは異なり、生き物的に何だか全然違った。
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by epokhe | 2006-06-25 21:48

Knowledge Society ~知識よ、サラバ~

IT革命、グローバリゼーション、産業のサービス化、知財重視、地方分権、ソーシャルネットワーク、地域コミュニティなど、現代社会は、急速に、「工業社会」から「知識社会」への移行を進めていると言われている。
(知識社会事務局webより)


下記は、知識社会をよく分かっていない方々の見解。

「基本的な経済資源、すなわち経済用語でいうところの”生産手段”は、もはや、資本でも、天然資源(経済学の「土地」)でも、「労働」でもない。それは知識となる。」
(P・ドラッカー著「ポスト資本主義社会 ~21世紀の組織と人間はどう変わるか」より)


「...間もなく新しい世紀を迎えようとするこの20世紀の終わりに、そうした過程は、すでに目に見えている新しい特徴に道を譲ろうとしている。それが「知識社会」ーすなわち「知識」あるいはより具体的に言うなら、私がこれまで論じてきた「理論的知識の体系化」に基づく社会ーの創造である」
(ダニエル・ベル著「知識社会の衝撃」~日本の読者へ~より)


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ではでは、本当の意味での知識社会というのは、どんな社会か分かるだろうか?
知識社会とは、知識がますます重要となっていく社会なんぞでは全くない。
答えは、その逆である。
知識社会というのは、知識がもはや価値を持たなくなる社会のことである。
今は、どんな人であっても、万人が知識に簡単に触れられる時代となっている。
皆が、最先端の知識に容易にアクセスできてしまう。
誰でも知識に接近でき、知識との距離が縮まるということは、つまり、知識そのものの価値がどんどん低下してゆくということである。
したがって、知識はもはや「身に付ける」べきものではなくなる。
知識が必要な時には、その最先端の知識に手を伸ばして持ってくれば良いだけなのだから。

というわけで、知識社会とは、実は「知識無価値化社会」を意味するのである。
やっと、人間が知識から解放される時代がやってくる。

知識君、さようなら。
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by epokhe | 2006-06-24 18:08

映画『フーリガン ~HOOLIGANS~』

"United! United!"
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「男には引かぬ時と引くべき時がある」

私が好きな映画の一つ『トレインスポッティング』の監督(ドイツ出身の女性監督レクシー・アレキサンダー)作品、『HOOLIGANS』。
観ていてとっても気持ちの良い映画だった。
気分爽快。
本場のフーリガンは桁が違う。
レベルが違う。
人間だったら、こういう仲間意識の中で暴れ生きたい感覚って絶対あるのだろうと思う。
フーリガンを味わってしまったら生半可では生きている気がしない、というのは実によく分かる。
現在ワールドカップ開催国のドイツでは、この映画は上映禁止らしいが、そういえば今フーリガンの話聞かないなー。

ちなみに、リーダー役のチャーリー・ハナムは、メチャメチャそそられるguyです。
あの坊主頭も体つきも顔つきも役柄も全てそそる人でした。
ただ英語の発音が…。
私はヤンク・イングリッシュが一番聞き取りやすいし、ヤンク・イングリッシュしか喋れないので、英国英語の方が訛りに聞こえる…。
(英国人は米国英語を訛り扱いするし、米国人からすれば、英国人・英国英語は「ダサい」と認識して馬鹿にしてるし、五十歩百歩だな。)
あと、フーリガンはアメリカ人よりfuckin', fuckin', fuckin', fuckin', ……がお好き。

ともかく、現代人も少しはフーリガンを見習って、もっともっと身体を動かさねばならん。
指先とか手先とか頭先とか脳先とか、チョコチョコこじんまりとした動きしかしないでいると、狂うと思う。
私達はなんてチマチマしてるんだろうと思わせてくれた映画だった。
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by epokhe | 2006-06-24 00:48

嘘が好きな私達

何かうまくいかないことの元を辿ると「嘘」に行き着くことが多い。
多いというより、うまくいかないこと或いは不都合が生じる始点は、全て「嘘」にある。
「嘘」という言葉が主観を含んでいるとしたら、「偽り」或いは「偽」と言った方が正確だろうか。
嘘や偽りこそが、諸悪の権化になっている。
偽から出発して、その偽に合わせるように物事が進むと、当然それはどこかで支障をきたす。

従って、万事快調にパフォーマンスを終えるためには、できる限り「真」から開始することだ。
「真」といっても何が何だか解らないかもしれないが、それはとても単純明快なことで、「事実」から始めるということだ。
その現時点で実際に見えているもの、明らかなものからのみ物事を進めるようにする。
希望的観測とか邪推とか予測とか予想とか、そういったナンセンスなことから始めてしまうと失敗をする。
何故なら、それは、全て自分の思い込みに基づいているからだ。
「こうしたらこうなるだろう」「ああしたらああなるだろう」という憶測の、そのまた先を考えて行動していては、結局ずれてしまう。
その時点の事実から出発して、その次の段階では、物事の状況、または相手の言動に委ねる。
そして、自分に返ってきた「物事の状況、または相手の言動」に対して、再び対処する。
本当はそれしかできない。
大抵は自分の思い通りになどいかないものなので。
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by epokhe | 2006-06-22 00:02

属性階層と個人業績

世の中が近代化するにつれて業績主義が台頭し、属性の重要性は廃れると予想されていたが、日本でもアメリカでも最終学歴の程度は出身階層と密接な関係にあり、個人の業績を説明する上に出身階層の影響力は低下していない。
もし業績主義が属性主義に取って代わって中心的な配分原理になると、業績の一つの典型である学歴達成は出身階層と何ら関係がないはずであるが、現実は学歴レベルに出身階層の影響は無視できない。
東京大学生の家庭の平均年間収入が最も高い、というのも高い学歴と高い出身階層がプラスに相関していることを示す良い例である。

現代日本には、カースト制やジャーティのような、制度化され可視化された階級はないが、階層が存在し、それに基づく階層格差が拡大している。
出身の属性が、個人の業績の限界要因の一つとなっている。
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by epokhe | 2006-06-17 20:23

貧困と逸脱

『デフレ不況下の「貧困の経験」』の中で、岩田氏は、パネル調査を用いて「貧困の経験」を詳細に提示し、貧困に結びつきやすい要因として離死別経験、多子、低学歴、未婚継続を指摘する。
日本の母子家庭における母親就業の高さは、既に多くの研究によって明らかにされている。
その原因の一つは、高い就業インセンティブを組み込んだ児童扶養手当制度と見られる。
母子家庭は多くが低所得層に位置するが、その高い経済的リスクは、彼女らの低い賃金と密接な関係がある。
公的現金給付は彼女らの低い収入を補完し、低所得リスクへの転落を予防する施策として位置づけられるべきものだと説く人もいる。

同著書の中で岩田氏は標準的生活様式を指数化し、貧困経験者は標準的生活様式から脱落しやすいと述べる。
二人親を標準とするなら、一人親であることは標準から逸脱したライフスタイルとも言える。
ここで単純に多数派が経験する(経験してきた)ライフコースを「典型」と捉えると、単独世帯や一人親世帯はその典型から外れた例となる。
この典型から外れることが経済リスクを高くし、さらに女性の場合はそのリスクが加重される。
この「典型からのズレ」は明らかに性差を内包している。
事実、世帯構造分布を見ると男女では大きく異なっており、女性が世帯主になること自体まだ珍しい。
ただし「典型からズレ」ることは、女性だけの問題ではない。
男性も未婚のままとどまること、離別をすることが高い経済リスクを伴う。
この多数派に対する少数派、「典型から外れた場合」を社会的にどう支えていくかが、公的保障の在り方を考えるにあたってのキーとなるらしい。

上記は、今話題の「格差」の根元の一つだが、ノーマルから外れてしまった人が即弱者という状況は、非常に嘆かわしく可哀相な話である。
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by epokhe | 2006-06-17 19:56

電子書簡

epokhe@excite.co.jp

先日、上記のメールアドレスを、ブログトップに公開した。
すると、これにお気づきの読者の方から早速メールを頂戴した。
ほんっとーにありがとうございます。

私は今、自分の身の回りの現実が、一体どれほどリアルなのか確かめるために、ブログを書いている気がします。
現在の私が身を置く日常は、とにかく「根拠」と「客観性」と「論理性」と「実証」が求められる世界なのです、実は。
それの反動と言ってはなんですが、実証なんてできないことの方がよっぽどリアルなんではないかと思うのです。

それはさておき、電子書簡は素晴らしいね。
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by epokhe | 2006-06-16 03:35
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MAIL: epokhe@excite.co.jp


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