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愛・アムール・リーベ・ラヴ

日本語としての「愛」という言葉には、長い歴史によって豊かにされた、その内容的な実質が欠けている。
明治になってから、ヨーロッパ的な「愛」、つまりアムールやリーベやラヴの理念を注入してさえ、この言葉はうまく日本の土壌に根付かなかったように見える。

愛はそもそも漢語であり、日本の古典文学にも、漢籍や仏典をお手本にした作品ならば、もちろん「愛」はたくさん出てくる。
といっても、それらの文中に出てくる「愛す」は、男女間の対等の関係でいだく愛情ではなく、親から子、君から臣、人から動物へというように、上から下に対する場合が多い。
寵愛あるいは愛玩のニュアンスが著しく強いわけだ。
元来、ヨーロッパ的な「愛」とは大いに違う。
梵文学者の松山俊太郎氏は「漢語の『愛』について」という論文の中で、次のような結論を述べている。
「愛とは、対象と自己と、別個の存在であることを知りながら、分かちがたくなる気持ちである。」
「漢語の『愛』は、母性的感情の発露を原型とする『彼我の情緒的合一』であり、その対象への態度は多く『めぐみ』として現れ、『欲』である場合は少ない。また、『恋愛』は中核的な意義をもたない。」
つまり、「欲」を抜きにした「愛」であり、愛と欲との結びつき或いは混同を、中国人は慎重に避けていた。

これに反して、ギリシアのエロースや、ローマやインドのクピードーから出発するヨーロッパ的な愛の観念は、最初から欲望と緊密に結びついており、したがってまた、エゴイスティックであることを避けがたい。
ユダヤ人の批評家コンスタンティン・ブルンナーの『愛、結婚、男、女』には、以下のような文章がある。
「愛は、個人がそれを意識しているかぎり、飢えがエゴイズムであるように、つねにエゴイズムである。人間においても、その他の動物においても同様だ。蜘蛛の雌においては、交尾の欲望は雄に対する愛から生ずるのではなく、かえって彼女自身に対する愛から生ずる。というのは、交尾中以外のときに雄に出会うと、彼女のなかに目ざめるのは、この同じ雄に対する攻撃の欲望であり、食いたいという欲望だからである。ひとたび交尾が終れば、この欲望はただちに目ざめる。(中略)ヘンリー八世は、彼が結婚した女だけを考慮に入れるならば、そのうち二人を離縁し、他の二人を殺害した。愛しているあいだは、少なくとも二人のエゴイズムが一つに溶け合い、それぞれが全体の半分を構成する性的結合において、相互の快楽の欲望が一致していたのであるが、ひとたび愛が終れば、それぞれが全体の半分であるどころか、エゴイズムという一つの全体でしかないことが明白になったのである。」

以上のように、中国人の考えた漢語の愛には、少なくともエゴイズムの観念は含まれる余地がなかったのに対して、アムールやリーベやラヴには、エゴイズムに赴く必然性があった。
そして、私はどう考えるかと言えば、どちらも若干嘘だと思う。
中国人もずるいし、かといってインド人やヨーロッパ人もエゴ意識が強すぎる。
愛・アムール・リーベ・ラヴでは、どれが良いかと言えば、私はアムールが好きである。
アムールが一番優美でほっこりしている。


Avec amour,
epokhe
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by epokhe | 2005-03-06 19:49
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